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たねまき だいすき ランラン

こどものせかい 2008年10月号

加藤潤子・絵と文 至光社

落ちた種が実を結ぶまでのお話し。
道端に落ちた種。石だらけのところに落ちた種。いばらの中に落ちた種。そして、良いところに落ちた種。
女の子ランランが、ロバさん、リスさん、アリさんと出会いながら、種まきが大好きになってゆく道のりを描いています。 

聖書 マルコ4:3-8より

絵本「たねまきだいすきランラン」 至光社こどものせかい 2008年10月号
にじのひろば - 2008年10月掲載
絵本「たねまきだいすきランラン」 至光社こどものせかい 2008年10月号

 私にとって種まきのたとえ話は、幼い頃からよく聞いてはいたものの、なんだかあやふやなままでした。
ちょっと怖い話だったので、さりげなく遠ざけていたのかも。この絵本作りを通して、知ることができたらいいなぁ、と思っていました。
ひとつ、はじめに決めたことは、道ばた・岩地・いばらの地に落ちた種について、とても悲しんでいる人がいることを描くこと。良い地については、うらやましいなぁ…実はこんな気持ち。どこかよそいきなせいか…このページは何枚も描き直すことに。
 ところが、絵本作りもいよいよ最後の今になって、私は良い地が、ただただ、大好きになりました。ランランも、ロバさん、リスくん、アリンコも種まき大好きになって、よかったよかった!

読んでくださったみなさんも、好きになってもらえたらいいです。

​加藤潤子

この絵本をめくりながら
援助修道会 景山あき子

 イエスさまは大切なことを分かり易く教えようとして、いろいろたとえを使って話されました。この絵本『たねまき だいすき ランラン』も、その中の一つです。麦の種、野菜の種、花の種などを蒔くという日常生活でしていることを話しながら、その奥にある大事なことをイエスさまは伝えたかったのです。

 種は神さまからの「いのちのことば」で、土地はその種を受ける「私たちのこころ」を意味していました。イエスさまと一緒にいて、このお話を聞いていた弟子たちは、後に次のように説明してくれました。(ルカによる福音書8章11~15節参照)

 「道ばたに落ちて、鳥に食べられてしまった種のように、私たちのこころがぼんやりしていたり、自分のこと以外には無関心であったりすると、いのちのことばは、聞いても右から左へと抜けていき、芽も出せないで終わってしまうのです」

 「石地では、種は落ちて芽を出しても、根を張ることができないように、よいいのちのことばにすぐ飛びついても、心に落ち着きがなく、三日坊主で実行力がないと、いのちのことばは、やがてかき消されてしまうでしょう。芽が伸びないように、いのちのことばおも大きくならずに終わってしまうのです」

 「雑草や茨の中で芽を出した種は、結局 邪魔されて伸びず、花も咲かせられないように、こころの中に欲がいっぱいあると、いのちのことばは大きくなれないで終わってしまうでしょう」

 「そして、最後によい地に蒔かれた種が、どんどん伸びて花を咲かせ実をつけるように、注意深くいのちのことばを聞ける落ち着いたこころを準備しましょう。そうすれば、きっとよろこびの花を咲かせ、平和の実をつけるでしょう」

 弟子たちのすすめに従って、子どもたちのこころの土地をよい土地にしておきましょう。そのためには”急がず、焦らず、時間をしっかりかけて、待つこと、耐えること、祈ること”だと思います。

※『にじのひろば』は、こどものせかいについている、おとうさま、おかあさま、先生がた向けの冊子です。絵本の作者による「絵本づくりの仕事場より」のほか、編集者の方などによる「この絵本をめくりながら」、エッセイ、詩などが綴られています。2020年度からは『ちいさなひろば』になっています。

絵本「たねまき だいすき ランラン」ご感想 〜 ありがとうございます!
久松英二 神父さま

2008年秋

至光社編集部にくださったお手紙より

 

 皆様お元気でしょうか。9月半ばになり、朝晩はひんやりとした空気に包まれ、いよいよ秋へ向かっております。さて、加藤先生の「たねまきだいすきランラン」が本日届きました。「まいごのミーミ」に続いて、今回もまた聖書を題材にした素敵な絵本が仕上がりました。たねまきのたとえは、シスター景山が「この絵本をめくりながら」でみごとな解説なさっているように、神のことばとそれを受け入れる人間のこころの状態を教えているもので、イエス様のたとえとしてはとても明解でわかりやすいもののひとつです。でも、わかりやすいからこそ、わたしたちはもったいないことをする可能性があります。すなわち、わかりやすいからついこどもにこの話の「意味」を教えてしまうというものです。もちろん、いつかは教えた方がいいでしょうが、意味がわかりやすいからということで、子どもが小さいうちからつい教えてしまうと、子どもはおうおうにしてこの話を理屈で片付けてしまい、頭の引き出しには入れることができても、心の栄養にはならない、ということがあります。
 この話はずっと心の中の栄養として活きていてほしい内容のものです。そのためには、まだこころのまっさらなうちに、意味よりもストーリーそのものをそのまんま心に植え込むことが肝心です。いたずらに解説するよりも、まず話の中身も味わってもらう、楽しんでもらうことが先決です。朝の教育番組に「日本語であそぼ」というのがあります。あの番組の素晴らしいところは、狂言や能や歌舞伎といった子どもにはまったく意味不明なものを題材にした芝居やコント、あるいは名作の一文、あるいは四字熟語や難しいことわざをそのまま出しておきながら、解説を省き、まずはその言葉の響を、そのシーンのおもしろさを味わうことだけを目指しているところです。意味はあとからゆっくり教えていけばよい。すでに心の中に響きとして、映像として身近なものになっているものに、そういう意味があったのかという新鮮な感動が与えられるから、最初から「教え込む」よりよほど効果的です。

 今回の加藤先生の絵本は、まさにこうした効果をもたらす最良の手段となっています。まず素晴らしいのは、イエスのたとえをひとつの物語に仕上げて、子どものこころにわくわく感を起こさせることに成功していることです。子どもはおはなしのなかに入り込み、ストーリーをそのまま心のなかに植え付けていきます。そこには理屈の解説が全く入っていないし、その匂いも全くありません。「そのまんま」に徹しているから、こころにそのまんま入ってきます。ひとつの完結したストーリーとして心の引き出しにはいってしまいます。大きくなってその意味を聞くことがあるでしょう。そこに理解と同時に新鮮な感動も生まれるでしょう。感動して理解したものは、かならずこころの栄養になります。またしても、私の「至光社版こどもの聖書」のコレクションにまた一冊傑作が追加されました。ありがとうございます。